2011年3月5日土曜日

子ども手当ての所得制限には理論がない

子ども手当ての是非はさておき、子ども手当てに所得制限をする、というのは、政策の意義という点で考えると、筋が通らない。

理由を2つの点から述べる。


まず、「高所得者は生活に余裕があるから、子ども手当ては要らない。」という意見に対して。

そもそも「収入が高い」ことと「子育てにお金がかかる」ことは、直接関係がない。

収入が高い人は、それだけ沢山の税金を払っている。所得税は累進課税だから、収入の高い人ほど課税される率は高い。

「生活に余裕がある」ことに対して、「高い税率」という点で負担を大きくされているのだから、さらに「子ども手当ての不支給」という二重の負担をかける必然性があるのかは、私には疑問である。沢山税金を払っているのだから、そのうちの一部が子ども手当てとして戻ることに、そこまで文句を言う必要があるのだろうか。


次に、「子どものいない高所得者」と「子どものいる高所得者」との間の関係から考える。

政策というのは、何らかの意図を持っているものだ。政策によって社会がある方向に誘導されないのであれば、その政策を打つ意味がない。

高所得者に子ども手当てを支給しないということであれば、「高所得者は子どもを作らなくてもいい」という政策意図があることになる。意図はなくても、そういう政策を実行すれば、社会はそう動く。

私がもっと若い頃・バブル時代には、DINKSという言葉が流行った。共働きで子どもがいない。稼ぎも多くて、その稼ぎを夫婦がぜいたくに使っていい暮らしをする。いかにもバブリーな発想で、最近はあまり聞かなくなったが、まあそういう人も都会には沢山いる。

私もかつては東京でDINKSな生活をしていた。それを望んだ訳ではなく、たまたまそうなった。夫婦の稼ぎが増えてくると、自然と生活は贅沢になっていく。一度贅沢になった生活水準を落とすのには、かなりの強い意思がいる。正直言って、子育てにお金と時間を費やしたいという気持ちには、全くなれなかった。逆にいえば、そんな状況にあって子どもを育てている人には、何かメリットを与えてあげた方がいいと思ったし、よほどのメリットがないと子どもなんて作る気にならないよな、とも思った。

現実として、平均所得が最も高い東京都の出生率は全国一低く、平均所得がビリ争いの長崎県の出生率は全国トップクラスの高さである。

何も考えないと、「だから長崎の低所得者夫婦には子ども手当てを支給して、東京の高所得者夫婦には支給しなくていいんだ」となるかもしれない。でもそれでいいのか。もう1つ先をいえば、これは「子どもは長崎の低所得者が作るから、東京の高所得者は作らなくてもいいよ」という方向に誘導する政策になってしまうのだ。


やはり、「子どもはみんなでつくりましょう」という政策の方がいいのではないだろうか。そのためには、「子ども手当てに所得制限をかける」というのは、筋の通らない政策なのだ。