福島の原子力発電所の事故で大変なことになっています。
言うまでもなく長崎は被爆地であり、今でもたくさんの被爆者の方が元気に生きておられます。
これまで長崎は、原爆の恐ろしさ、被曝の恐ろしさについては、世界中に発信してきました。
しかし、被爆後65年が経った今でも、被曝しても元気に生きている人がたくさんいる、ということについては、ほとんど発信していなかったと思います。
そのため、とにかく放射線は恐ろしいものだ、というイメージだけが世間に広がっている印象を受けます。
今大事なのは、放射線の恐ろしさだけを発信するのではなく、ある程度の放射線量を受けても、大きな健康被害はない、ということも伝えて、福島の人の不安感を取り除くことではないでしょうか。
長崎(そして広島)には、今、福島の原発の近くに住んでいる人が受けた、あるいはこれから受けるであろう放射線量より、遥かに多くの放射線を受け、しかも被爆後65年経っても、元気に生きている人が沢山いるのです。
この、今元気に生きている被爆者の方々が福島に出向いて、放射線の被害に対する不安を持っている人達に、「私は何シーベルトの放射線を浴びたけど、65年経っても、この通り元気です。みなさんが受ける放射線量は、私たちより遥かに少ないはずです。私は子どもの時に被曝しました。赤ちゃんの時に被曝しました。それでもこの通り元気です。みなさんも、どうぞ心配しないで下さい。」と直接語り、現地の人を勇気づけてあげることはできないでしょうか。
今大事なのは、放射線の怖さを語り福島の人を不安にさせることではなく、不安を取り除くことでしょう。マスコミの報道では、放射線による健康被害のことしか話されていません。これでは、いくら心配しなくても大丈夫だ、と言われても、誰でも心配になります。この不安感を取り除くことができるのは、長崎、そして広島の被爆者しかいないのではないでしょうか。
2011年3月30日水曜日
2011年3月5日土曜日
子ども手当ての所得制限には理論がない
子ども手当ての是非はさておき、子ども手当てに所得制限をする、というのは、政策の意義という点で考えると、筋が通らない。
理由を2つの点から述べる。
まず、「高所得者は生活に余裕があるから、子ども手当ては要らない。」という意見に対して。
そもそも「収入が高い」ことと「子育てにお金がかかる」ことは、直接関係がない。
収入が高い人は、それだけ沢山の税金を払っている。所得税は累進課税だから、収入の高い人ほど課税される率は高い。
「生活に余裕がある」ことに対して、「高い税率」という点で負担を大きくされているのだから、さらに「子ども手当ての不支給」という二重の負担をかける必然性があるのかは、私には疑問である。沢山税金を払っているのだから、そのうちの一部が子ども手当てとして戻ることに、そこまで文句を言う必要があるのだろうか。
次に、「子どものいない高所得者」と「子どものいる高所得者」との間の関係から考える。
政策というのは、何らかの意図を持っているものだ。政策によって社会がある方向に誘導されないのであれば、その政策を打つ意味がない。
高所得者に子ども手当てを支給しないということであれば、「高所得者は子どもを作らなくてもいい」という政策意図があることになる。意図はなくても、そういう政策を実行すれば、社会はそう動く。
私がもっと若い頃・バブル時代には、DINKSという言葉が流行った。共働きで子どもがいない。稼ぎも多くて、その稼ぎを夫婦がぜいたくに使っていい暮らしをする。いかにもバブリーな発想で、最近はあまり聞かなくなったが、まあそういう人も都会には沢山いる。
私もかつては東京でDINKSな生活をしていた。それを望んだ訳ではなく、たまたまそうなった。夫婦の稼ぎが増えてくると、自然と生活は贅沢になっていく。一度贅沢になった生活水準を落とすのには、かなりの強い意思がいる。正直言って、子育てにお金と時間を費やしたいという気持ちには、全くなれなかった。逆にいえば、そんな状況にあって子どもを育てている人には、何かメリットを与えてあげた方がいいと思ったし、よほどのメリットがないと子どもなんて作る気にならないよな、とも思った。
現実として、平均所得が最も高い東京都の出生率は全国一低く、平均所得がビリ争いの長崎県の出生率は全国トップクラスの高さである。
何も考えないと、「だから長崎の低所得者夫婦には子ども手当てを支給して、東京の高所得者夫婦には支給しなくていいんだ」となるかもしれない。でもそれでいいのか。もう1つ先をいえば、これは「子どもは長崎の低所得者が作るから、東京の高所得者は作らなくてもいいよ」という方向に誘導する政策になってしまうのだ。
やはり、「子どもはみんなでつくりましょう」という政策の方がいいのではないだろうか。そのためには、「子ども手当てに所得制限をかける」というのは、筋の通らない政策なのだ。
理由を2つの点から述べる。
まず、「高所得者は生活に余裕があるから、子ども手当ては要らない。」という意見に対して。
そもそも「収入が高い」ことと「子育てにお金がかかる」ことは、直接関係がない。
収入が高い人は、それだけ沢山の税金を払っている。所得税は累進課税だから、収入の高い人ほど課税される率は高い。
「生活に余裕がある」ことに対して、「高い税率」という点で負担を大きくされているのだから、さらに「子ども手当ての不支給」という二重の負担をかける必然性があるのかは、私には疑問である。沢山税金を払っているのだから、そのうちの一部が子ども手当てとして戻ることに、そこまで文句を言う必要があるのだろうか。
次に、「子どものいない高所得者」と「子どものいる高所得者」との間の関係から考える。
政策というのは、何らかの意図を持っているものだ。政策によって社会がある方向に誘導されないのであれば、その政策を打つ意味がない。
高所得者に子ども手当てを支給しないということであれば、「高所得者は子どもを作らなくてもいい」という政策意図があることになる。意図はなくても、そういう政策を実行すれば、社会はそう動く。
私がもっと若い頃・バブル時代には、DINKSという言葉が流行った。共働きで子どもがいない。稼ぎも多くて、その稼ぎを夫婦がぜいたくに使っていい暮らしをする。いかにもバブリーな発想で、最近はあまり聞かなくなったが、まあそういう人も都会には沢山いる。
私もかつては東京でDINKSな生活をしていた。それを望んだ訳ではなく、たまたまそうなった。夫婦の稼ぎが増えてくると、自然と生活は贅沢になっていく。一度贅沢になった生活水準を落とすのには、かなりの強い意思がいる。正直言って、子育てにお金と時間を費やしたいという気持ちには、全くなれなかった。逆にいえば、そんな状況にあって子どもを育てている人には、何かメリットを与えてあげた方がいいと思ったし、よほどのメリットがないと子どもなんて作る気にならないよな、とも思った。
現実として、平均所得が最も高い東京都の出生率は全国一低く、平均所得がビリ争いの長崎県の出生率は全国トップクラスの高さである。
何も考えないと、「だから長崎の低所得者夫婦には子ども手当てを支給して、東京の高所得者夫婦には支給しなくていいんだ」となるかもしれない。でもそれでいいのか。もう1つ先をいえば、これは「子どもは長崎の低所得者が作るから、東京の高所得者は作らなくてもいいよ」という方向に誘導する政策になってしまうのだ。
やはり、「子どもはみんなでつくりましょう」という政策の方がいいのではないだろうか。そのためには、「子ども手当てに所得制限をかける」というのは、筋の通らない政策なのだ。
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